作成日: 07/11/09  
修正日: 07/11/09  

義経記巻第六(国民文庫本)

忠信最期の事


忠信敵の声に驚き起上がり、太刀取り直し、差し屈みて見ければ、四方に敵満ち満ちたり。遁れて出づべき方もなし。内にて独言に言ひけるは、「始めある物は終有り。生ある者必ず滅す。其の期は力及ばずや。屋嶋、摂津国、長門の壇浦、吉野の奥の合戦まで、随分身をば亡き物とこそ思ひつれども、其の期ならねば今日まで延びぬ。然りとは雖も、只今が最期にて有りけるを、驚くこそ愚なれ。然ればとて犬死すべき様なし」とて、ひしひしとぞ出で立ちける。白き小袖に黄なる大口、直垂の袖を結びて肩に打ち越し、咋日乱したる髪を未だ梳りもせず、取り上げ、一所に結ひ、烏帽子引き立て押し揉うで、盆の窪に引き入れ、烏帽子懸を以て額にむずと結ひて、太刀を取り差し、俯きて見れば、未だ仄暗くて、物の具の色は見えず、敵はむらむらに控へたり。中々中を通りて、紛れ行かばやとぞ思ひける。
され共敵甲胃をよろひ、矢を矧げて、駒に鞭を進めたり。追ひ掛けて散々に射られんず。薄手負うて死にもやらず、生けながら六波羅へ取られなんず。判官の御座する所知らんずらんと問はば、知らずと申さば、さらば放逸に当たれとて糾問せられ、一旦知らずと申すとも、次第に性根乱れなん後は有りの儘に白状したらば、吉野の奥に留まりて、君に命を参らせたる志無になりなん事こそ悲しけれ。如何にもして此処を逃ればやとぞ思ひける。中門の縁に差し入りて見ければ、上に古りたる座敷有り。直と上りて見ければ、上薄く、京の板屋の癖として、月は洩り、星は溜れど葺きければ、所々は疎なり。健者にてある間、左右の腕を挙げて、家を引き上げつと出でて、梢を鳥の飛ぶが如くに散り散つてぞ落ちて行く。江馬の小四郎是を見て、「すはや敵は落つるぞ。只射殺せ」とて精兵共に散々に射さす。手にもたまらざりければ、矢比遠くぞなりにける。また夜の曙なれば、町里小路に外し置きたる雑車、駒の蹄しどろにして、思ふ様にも駈けざりければ、かくて忠信をぞ失ひける。
其の儘落ち行かば、中々し果すべかりつるに、我が行方を案じ思うて、片辺は在京の者に下知して差し塞がれなん。洛中は北条殿父子の勢を以て探されん。とても遁れぬもの故に、末々の奴原の手にかけて、射殺されんこそ悲しけれ。一両年も判官の住み給ひし六条堀河の宿所に参りて、君を見参らすると思ひて、其処にてともかくもならばやと思ひて、六条堀川の方へぞ行きける。去年まで住み馴れ給ひし跡を帰り来て見れば、今年は何時しか引きかへて、門押し立つる者も無く、縁と等しく塵積り、蔀、遣戸皆崩れたり。御簾をば常に風ぞ捲く。一間の障子の内に分け入りて見れば、蜘蛛の糸を乱したり。是を見るに付けても、日頃はかくは無かりしものをと思ひければ、猛き心も前後不覚にこそなりにけれ。
見たき所を見廻りて、扨出居に差し出でて、簾所々に切りて落し、蔀上げて太刀取り直し、衣の袖にて押し拭ひ、「何にてもあれ」と独言言ひて北条の二百余騎を只一人して待ちかけたり。あはれ敵や、良き敵かな。関東にては鎌倉殿の御舅、都にては六波羅殿、我が身に取りては過分の敵ぞかし。あたら敵に犬死せんずるこそ悲しけれ。よからん鎧一両、胡■一腰もがな、最後の軍して腹切りなんと思ひ居たりけるが、誠に是は鎧一両残されし事の有りしぞかし。去年の十一月十三日に都を出でて、四国の方へ下り給ひし時、都の名残を捨て兼ねて、其の夜は鳥羽の湊に一夜宿し給ひたりし時に、常陸坊を召して「義経が住みたる六条堀河には、如何なる者の住まんずらん」と仰せければ、常陸坊申しけるは、「誰か住み候はん。自ら天魔の住処とこそなり候はん」と申しければ、「義経が住み馴らしたる所に天魔の住処とならん事憂かるべし。主の為に重き甲冑を置きつれば、守となりて悪魔を寄せぬ事のあるなるぞ」とて、小桜威の鎧四方白の兜、山鳥の羽の矢十六差して、丸木の弓一張添へて置かれたりしぞかし。未だ有りもやすらんと思ひて、天井にひたひたと上がりて差し覗きて見れば、巳の時許りの事なれば、東の山より日の光射したる、隙間より入りて輝きたるに、兜の星金物ぎがとして見えたり。
取り下して草摺長に著下し、矢掻き負ひ、弓押し張り、素引打して、北条殿の二百余騎遅しと待つ所に、間もすかさず押し寄せたり。先陣は大庭に込み入りて、後陣は門外に控へたり。江馬の小四郎義時鞠の懸を小楯に取りて宣ひけるは、「穢し四郎兵衛。とても逃るまじきぞ。顕に出で給へ。大将軍は北条殿、斯く申すは江間の小四郎義時と言ふ者なり。はやはや出で給へ」と言へば、忠信是を聞きて、縁の上に立ちたる蔀の下がはと突き落し、手矢取りて差し矧げ申しけるは、「江馬の小四郎に申すべき事有り。あはれ御辺達は法を知り給はぬものかな。保元平治の合戦と申すは、上と上との御事なれば、内裏にも御所にも恐をなし、思ふ様にこそ振舞ひしか。是はそれに似るべくもなし。某と御辺とは私軍にてこそあれ、鎌倉殿と左馬頭殿の御君達、我等が殿も御兄弟ぞかし。例へば人の讒言によりて、御仲不和になり給ふとも、是ぞ讒言寃なれば、思し召し直したらん時は、あはれ一つの煩ひかな」と言ひも果てず、縁より下へ飛んで降り、雨落に立ちて、差詰め差詰め散々に射る。江間の小四郎が真先かけたる郎等三騎、同じ枕に射伏せたり。
二騎に手負せければ、池の東の端を門外へ向けて嵐に木の葉の散る如く、群めかしてぞ引きにける。後陣是を見て、「穢し江馬殿、敵五騎十騎も有らばこそ、敵は一人也。返し合はせ給へや」と言はれて、馬の鼻を取つて返し、忠信を中に取り込めて散々に攻むる。四郎兵衛も十六差したる矢なれば、程無く射尽くして、箙をかなぐり捨てて、太刀を抜きて、大勢の中へ乱れ入りて、手にもたまらず散々に斬り廻る。馬人の嫌ひ無く、大勢其処にて斬られけり。さて鎧づきして身を的にかけて射させけり。精兵の射る矢は裏を掻く。小兵の射る矢は筈を返して立たざりけり。然れども隙間に立つも多ければ、夢を見る様にぞ有り。
とてもかくても遁れぬもの故に、弱りて後押へて首を取られんも詮なし。今は腹切らばやと思ひて、太刀を打ち振りて縁につつと上がり、西向に立ち、合掌して申しけるは、「小四郎殿へ申し候ふ。伊豆、駿河の若党の、殊の外の狼藉に見え候ふを、万事を鎮めて剛の者の腹切る様を御覧ぜよや。東国の方へも主に志も有り、珍事中夭にも会ひ、又敵に首を取らせじとて自害する者の為に、是こそ末代の手本よ、鎌倉殿にも自害の様をも、最期の言葉をも見参に入れて賜べ」と申しければ、「さらば静に腹を切らせて首を取れ」とて、手綱を打ち捨て是を見る。心安げに思ひて、念仏高声に三十遍ばかり申して、願以此功徳と廻向して、大の刀を抜きて、引合をふつと切つて、膝をつい立て居丈高になりて、刀を取り直し、左の脇の下にがはと刺し貫きて、右の肩の下へするりと引き廻し、心先に貫きて、臍の下まで掻き落し、刀を押し拭ひて打ち見て、「あはれ刀や、舞房に誂へて、よくよく作ると言ひたりし効有り。腹を切るに少しも物の障る様にも無きものかな。此の刀を捨てたらば、屍に添へて東国まで取られんず。若き者共に良き刀、悪しき刀など言はれん事も由なし。
黄泉まで持つべき」とて、押し拭ひて鞘にさして、膝の下に押しかいて、疵の口を掴みて引き開け、拳を握りて腹の中に入れて、腸縁の上に散々に掴み出だして、「黄泉まで持つ刀をばかくするぞ」とて、柄を心先へ、鞘は折骨の下へ突き入れて、手をむずと組み、死にげも無くて息強げに念仏申して居たり。
さても命死に兼ねて、世間の無常を観じて申しけるは、「あはれなりける娑婆世界の習ひかな。老少不定の境、げに定は無かりけり。如何なる者の、矢一に死をして、後までも妻子に憂き目を見すらん。忠信如何なる身を持ちて、身を殺すに、死に兼ねたる業の程こそ悲しけれ。是も只余りに判官を恋しと思ひ奉る故に、是まで命は長きかや。是ぞ判官の賜びたりし御帯刀、是を御形見に見て、黄泉も心安かれ」とて、抜いて、置きたる太刀を取りて、先を口に含みて、膝を押へて立ち上がり、手を放つて俯伏に、がはと倒れけり。鍔は口に止まり、切先は鬢の髪を分けて、後ろにするりとぞ通りける。惜しかるべき命かな。文治二年正月六日の辰の刻に、遂に人手にかからず、生年廿八にて失せにけり。









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